昭和50年12月12日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へうまれて来たのではない。みな、神のおかげでうまれて来たので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、うやもうてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」

 天地を丸生かしにして下さる神様だ。天地を丸生かしにしなさる神様だ。まぁ私共が頂いておる金光大神を通して拝まして頂いている神様はそういう神様。だから生かして下さる神様だから、生かして下さるように願わなければいけない。そこに一切が生きて来る。無駄な事と言う様なものがある筈がない。天地を丸生かしにして下さるということは、天地の中に起きおる全てのものを生かして下さる神様である。
 だから全てのものを生かしていく。生かして下さる神様。だから生かして下さることを願わなければならない。昨日の御理解から頂きますと、あれもおかげであった、これもおかげであったと分るようになると本当の信者じゃとこういう。昨日はそこんところを、あれもおかげであったということは、信心がなかっても分るし、信心が薄かっても、なるほどあの事もやっぱりおかげであったなと分る事。
 例えばそれを敗戦、戦争に負けたということですらも、大変な国民を挙げての悲しい事であったけれども、そういうことですらも今から考えてみると、あの時に勝ち進んでおったことよりも、あの時に負けておったということの方が、人間としての本当の幸福の道が開かれたんだと、信心の薄いものでも、信心のあるものは尚更そのことが分る。そうすると敗戦そのことが生きて来る。いうならば敗戦のおかげで今日私共の命もあると言う人が沢山あろうと思う。
 あのとき戦争を続けておって日本国中がです、いうなら広島、長崎に落ちたような原爆が落ちとったら、私共はもう全滅するより外にはなかった。考えてみるとあそこでいわゆる、無条件降伏したということは幸いであったと、それはまぁ小さいことだけでもそうです。もう信心とは一切をいうならば、過去の一切を生かしていけっれる道であるのにです、その過去の事に於いてあの時、あぁいうことがなかったならば、今頃はもっと増しだろうにと、言う様なものがあったとしたら生かしてない証拠です。
 あのときあれがなかったら、もっと今頃は幸せになっていただろうにと、例えば言う様な事ではね、いわゆる過去の全てが生きていないわけです。だから私共の過去にはね、決して無駄はない。それが全部今の時点で本当にあの事のおかげでと分る事が、おれもおかげでsるという、あれもおかげであると分る事である。そこでなら今日をふんまえておる様々な難儀というものは、後から考えるとそれはおかげであると分るのだから、今の時点でそれをおかげとわかる。
 本当の信者というのはあれもというのは、たいした信心をせんでも分るけれども、これもおかがであると分ることが本当の信者者と、昨日初めてそういう意味で頂きましたですね。あれもということは誰でもわかる。けれどもこれもおかげであるということ、中々わからない現在通っておるところが苦しい事があればそれを難儀と見る。それを即おかげと見る事が出来るようになったら、いわゆる(まこと)(真実)と書くね。まことの信者じゃと。そういう昨日の御理解から頂いてもです。
 今日の御理解を頂きますと、この御理解八十節を先日頂いた時に、成程年寄りは先に生まれたということは間違いない、分ったことだけどね、けどどのように思うたっちや大事にされないお年寄りがおる。本当に可愛そうに思うて大事にすれば付け上がってから、日頃からもそうでしたが、電車の中で年寄りが傍に立っておられたから席を譲ってあげた。そしたら当然のこととしてから腰掛けられたから、譲らない方が良かったと言う様な、そげな年寄りがおりますよ。
 年寄りはもう大事にされることを当り前のように思うている。だから大事にされない。とまぁいうわけです。教祖様も年寄りを大切にせよとおっしゃる。大事に出来る年寄りもおるけれども、どのように思うても大事にない、いうならいわゆる頑固爺とか、コンニャク婆あというのがおるわけです。けれどもね、ご神意を悟らして、今日私が一番初めに申しましたようにね、天地を丸生かしにして下さる神様、いや天地を丸生かしにして下さる事の出来る神様に、というふうに頂いてまいりますとです。
 先日頂いた御理解の中に、天地の親神様が演出をして下さる大きな、いうならドラマの中にある私し共だということです。その中にはやっぱり善人もなからなければならない、悪人もまた必要であるということである。三枚目もおらなければいけん。二枚目もおらなければいけない。でなっかったらお芝居がお芝居。ドラマがドラマにならんのである。そういう意味でです、例えば根性の悪い人が一生根性の悪さで過ごしたとするならばです。一生を悪役で過ごしてきた。
 いうならば気の毒な役をたまわって来た人であるから、そういう意味で神様の御役に立ってきたひとであるから、そこに神様の御役にたってきたということになる。先に生まれてきた者はすこしでも世のお役に立ってきた道理であるからと、仰っておられることがわかるです。そういうお役に立ってきた人であるから、矢張り大事にしなければならない。そこんところを信心するものはよう心がけておかなければならない。信心者の言うならば心掛けであると言われるわけです。
 昨日久留米の浮世寿司の大将、大将というても自分一人でつい先日寿司屋を開業致しました。万事万端御都合お繰り合わせ頂いて、開店は出来たけれども、なかなかお客さんがおいそれとはない。それでもやはり毎日お参りをさして頂いて、まぁ信心でおかげで頂かなければならんと一生懸命でまぁはずませて頂くことで、まぁお客さんを待つ身であって、こちらから売ってさるくことはできん。先月は赤字でした。ところが今月に入ってから日々すこしづつではあるけれども、黒字になってきたとお届けしとります。
 私のお商売の仕方というか、それを大事にさして頂いとるということは、お魚の仕入れを、久留米より、吉井の方が良い魚が、しかも安くて手に入る。それで吉井まで毎日仕入れにいくらしい。そうすることによって、それだけ握り寿司を作るのですから、それだけ大きい魚を使うことが出来る。安くしてもらうだけ久留米でよりも、吉井から仕入れたものの方がそれだけ大きくしていく事が出来る。私はそれを聞かして頂きながら感心した。いうならば魚屋も勉強しなさるから、自分も勉強するとこういうのである。
 久留米で仕入れた積りで売りゃそれだか余計に儲かるようですけど、成程目先は儲かるようであってもです、それでは私は信用はつかない。まぁだ二十幾つの若い青年がそういう例えば、今日いうところにです、若い者でも役に立つ人は何となく人が敬う様になりますよと、不都合不行き届きが重なれば敬うてくれぬようになる。そりゃ若い者でも年寄りでも理屈は同じようなことになると、若い者でもとこう言っとられる。若い者でもそれは神様からご覧になってです、良い心掛けを私は身に着けていくならばです。
 そういう心掛けをもってするならばです、必ず神様の御信用がつくと思うです。世の中は神様を信じ神から信じられる人が多くなって行けば、世の中はいよいよ繁盛、いよいよ世の中は清まる。神を信じない、いや神を信じておっても神から信じられるという、氏子が少ないと仰る様に、神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰せられるのですから、世の中が本当に平和になって行くと言う事はです、世の中がいよいよ繁盛していくということはです。
 自他ともにそういう心掛けの人が出来ると言う事だと私は思います。備えさえすればよい言う事じゃない、お客さんが喜んで下さることのために精進するという生き方。安く仕入れたら安く売らせて貰えるから、お客さんが喜んで下さるから、安く仕入れてから当り前に売るだけで利幅は大きいようでけれども、それでは人の信用は勿論だけれども神様の信用は着かぬ。神様の信用を受けるということのための心掛けがです、年寄りを大切に取り扱わなければならない、大切にしなければならないと言う事であります。
 そういう心掛けが大事だというのです。ところが商売をしとれば一銭でも儲かりたい。なら年寄りでも大事にしようと思うけれども、どんなに思うてもあの年寄りだけは大事にされん、というてしまえばもうそれまでで信心はないことになる。けれどもそれを信心で頂かせてもらうときです、ね、お客さんを本位に喜んでもらうことをです、こんなに安うしても良かろうかと、例えば感謝されるようなそこに、いわゆるお客さんの信用もつくだけではない、神様の信用がつく、神様の御信用というのが御神徳です。
 人間の幸せは神様の御信用を受けれれる生き方をしなければ、本当の幸せは生まれません。信心させて頂いておかげを頂くということは、神を信じ信じられる私。これは家庭の上にでもそうです。親と子と主人と家内とがです、信じ信じられる仲。どうも家の息子は信じられない、信用が出きないという前に、親自身が息子に信じられる親に、本気でなることだよ。私は昨日或る方に、大きな商売をしている。ところがもうお店の方がガタガタする。その人にこういうことを書いてやった。
 「吹きすさぶ風雨をわすれて、家庭よりも何処よりも楽しい、居心地の良い職場にせよ。」店のものがガタガタするときは、その働き場が楽しみがないからだ、だからもう早く帰る事ばかり考えとる。仕事はまぁいい加減なことしかせん。それにはね、主人が主人の一念が大切である。一念とは一つの念、思い、人々に主人の一念がその職場や社会を左右するということを、常に心に掛け、そこに反省を持った主人がその店主になるならばです。例えば風雨が吹きすさぶように大変な状態であってもです。
 そういう一念を燃やしておる店主である、主人であるならばです、家よりも町よりも、何処よりもその職場を楽しいものとして働くようになる。その一念が足らんのだ。その一念一心が足らんのだ。いうならそういう心掛けが足りないのだ。という意味の事を書いてやりました。ね。どういう難儀な時であっても、困ったときであってもです、そういう神様を信じ、神様から信じられる程しの人が一人中におったらです、皆が大変明るくなります。楽になります。
 それには昨日から頂いておりますように、あれもおかげであったということは、もちろんこれもおかげであるということを分らせてもらえれる信心、ね。それが本当の信者じゃとその本当の信者がです、家の中に一人おったら、会社の中に一人おったら、その周囲には矢張り光があり安らぎがあり、例えどういうなかにあっても、あの人の傍におりゃ安心と言う様に居心地が良くなってくる。そういう私はおかげの頂けれる信心、本当の信者を目指してもらう、その心掛けを今日皆さんに聞いて頂いたね。
 いうならば年寄りを大事にせよと、大事にさせてもらえれるそういう心掛け、若い者でも言うならば本当に世のお役に立つ人ならば、皆んなから信用が集まり、人からも敬うてもらうようになる。それにはね、お客さんが喜びなさるから人が喜ぶからという心掛け、そこにいわば神様の御信用がつくというふうに聞いて頂いた。ね。神様の御信用が付く。そういうおかげを頂くためにいわば心掛け、それを教祖様はあまり良し寄りというものは大事にされない傾向がある。
 それでも神様の眼からご覧になるとやっぱり世のお役にたってきておるのである。そこんところを分らして頂いたら、やはり大事にしなければ相済まん。そういう心掛けで年寄りを見て行け、扱うていけとそういう心掛けの人に神様が御信用下さる。神を信ずる氏子は多いけれども、神様に信じられる氏子は少ないと仰る。そういう神を信じ神様に信じられる氏子、そういう人が世の中に段々おおきくなっていくことが、いよいよ世の中が清まっていくことであり、いうならば和賀心時代を創っていくと言う様な。
 大きな願いの内容というのは、神を信じ信じられる人が段々できてくるということを、願いとすることにほかならないのです。それには心掛けが要るのです。その心掛けを今日は年寄りを大事にせよというふうに教祖は教えてあります。過去の一切、皆さんの過去にです。忌まわしい事やら難儀なことがいろいろあったけど、その忌まわしい事でも難儀な事ですらです、現在ではあれがおかげであったと、もう一応分らなければ過去が死んでしまう。過去が生きてこなければ駄目。
 信心とは過去の一切が生かすこと。いやこれからもまた生かし続けること。それが信心。それをあれがおかげと分るところから、今日もっておる、今日ふんまえておる、難儀と言う難儀を、実をいうとこれが、おかげと即分るということ。それが本当の信者じゃと仰る。だから本当の信者を目指してもらうからこそ、神様の御信用もついてくる。神様の御信用がついてくるから、幸せになれる。社会もまたそれだけ、明るくなってくるというわけであります。
 家の中にお店の中に会社の中に、自分が一人おることによって、皆がそこに安らぎが生まれる。楽しさが一杯、何とはなしにそういう雰囲気の持てれる人物を願わしてもらうことがです、一切をおかげにして行けれる実力者だとおもうです。そういう力をいよいよ養うて行かなければいけません。昨日の三時半から、昨日朝の研修会をさして頂きましたが、皆さん頂きどころをパッといただいておる。今申しますようにです、あれもおかげであった、これもおかげであった、今日の御理解はこれは昨日のお言葉ですよ。
 今日の御理解はこれもおかげであったと分る人こそが本当の信者じゃということを説いてあるということに、殆ど皆がそこんところにおいとりました。勿論昨日私があれもおかげであったというところを説かなかった。少しも説かなかったけども、その実際を言うたら、そういう例えばこれもおかげであるということは、実際において非常に難しい事である。これもおかげであるということは、なるほど本当の信者ということがみやすいということじゃないのです。
 けれどもせめてあれもおかげであったというところを、完璧に頂かなければこれもおかげであるということが分らん。過去の一切が生きて来る。それにはね、神様を信ずる。だから神様が信じられる修行をしなければいけない。かこの一切がみなおかげであると頂けた時に過去の一切が生きて来るのである。そこがまずは完璧にできなければ、これのおかげであることが理屈でわかっただけでは、本当なことは分りません。先ずは一つ過去の一切がおかげと頂けれるおかげを頂きたい。
 そして心掛けとしてです、信心させて頂くものの心掛けとしてです、教聴いて頂きました様な所をです、いよいよ大切にしていく稽古をしなければいけません。お客さんが喜んでくださればということ。お年寄りを喜ばせずにはおかない、大切の大切な仕方を、何故年寄りは大事にしなければなかないかということがです、分ったら大切にしなければおられない。またそれが信心させてもらうものの心掛けだと説いてあるわけですね。
   どうぞ。